大満寺の歴史

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歴史

大満寺は、その昔現在の青葉城址にありました。

虚空蔵山大満寺は、今から800年位前、奥州藤原氏が創建したと伝えられています。平泉四十八鐘の一つは、実に当山に置かれたものでありますが、維新前、藩の財政窮乏の犠牲となり消失したものであるとは古老の伝えるところです。

仙台青葉城には、長泉寺、龍泉寺、光禅寺、玄光庵、大満寺の五ヶ寺があり、大満寺の虚空蔵堂が主塔であったので、此の城を『虚空蔵城』とか、『虚空蔵楯(館)』とか号しました。

国分能登守(こくぶのとのかみ)の居城となった時、それを千躰城と改めました。『伊達治家記録』によると、『城辺に千躰仏を社るが故に千躰城と号す』と記されています。

その千躰仏とは、現在、虚空蔵堂に安置されていたものを指しています。虚空蔵堂下の石段の中腹に千躰堂跡といわれる場所がありますが、そのお堂が何年頃朽ちてしまったのかわかりません。そのため、現在までは、千躰仏を虚空蔵堂の中に合祀していました。この千躰仏は、仙台市地名ゆかりの源です。

慶長五年(1600年)、伊達政宗の時代になって千躰城は、千代城に変わったと封内風土記に記されています。

その後、『仙臺城』と貞山公は、名を改められました。それは、唐詩選の中の、仙臺初めて見る五城楼で始まる『同題仙遊観』という韓こう(こうの字は左側「広」+右側「羽」)の詩により『千代』の名は『仙臺』と政宗公によって変えられました。

仙臺初めて見る五城楼。
風物凄凄として宿雨収まる。
山色遥に連なる秦樹の晩。
砲聲近く報す漢宮の秋。
疎松影落ちて空壇静かに。
細草春香しうして小洞幽なり。
何ぞ用ひん別に方外を尋ねて去るを。
人間亦ら 自丹邸あり。

政宗公は、唐詩選をふまえて歌を詠みました。

栄枯盛衰は、歴史の流れにつきものです。天正五年(1573年)に、中古荒廃無にして千躰仏も散失し荒れるがままになっていた時代、今から401年前、正新町帝の天正元年、龍泉院三世量山廣寿和尚が虚空蔵堂を再造して大満寺を中興しました。この頃から、大満寺は、曹洞宗になったのではないかと推測されます。大満寺が中興される以前の歴代の住職は不明です。それ以前は、密教系の天台宗か、真言宗でないかと思われます。

慶長五年(1600年)383年前、藩祖政宗公が仙台城を大規模に築城するにあたり、大満寺、虚空蔵堂、千躰堂は経ヶ峰に遷座し造営されました。

万治二年、伊達第二代藩主忠宗公葬去により忠宗公の遺言もあって、政宗公霊廟近くに感仙殿を造営することになりました。経ヶ峰は高低あり、適当な場所がないので、大満寺、虚空蔵堂、千躰堂の所在地が平坦で最適地なために、これらを、現在の愛宕山の西と、その麓に遷座させたのである。この時の普請奉行が、小説『樅の木は残った』で有名な、原田甲斐宗輔でした。それから400年、現在地の向山に鎮座ましましています。

大満寺の開基は、二代忠宗公で、万治元年(1659年)7月12日逝去、享年60才で亡くなられ、大慈院殿前羽林義山崇仁大居士という法名で大満寺に位牌寺として三十六石の領地を奉納寄進されました。現在の愛宕中学校所在地より八木山に到る長峰一帯は大満寺の薪領地でした。藩主伊達家から禄をいただいていたため、寺院運営が保障され、そのため、ほとんど檀家がなかったようです。

虚空蔵堂は、江戸時代初期のもので代表的仏道建築で現在、仙台市の文化財になっています。その堅牢さは、昭和53年6月12日夕刻の宮城県沖大地震の時、現在建築よりはるかに木造建築としてすぐれていることを実証させました。

虚空蔵堂の御本尊は、虚空蔵大菩薩で脇仏に日光菩薩、月光菩薩が安置されています。普段は、厨子は、しまっていて十二支の丑寅の年に御開帳されます。守護神として、厨子の傍に不動明王、昆沙門天も安置されています。

切り立った崖の上に立つ愛宕山の虚空蔵堂は、江戸時代、城下の風光明媚な展望台で、庶民には参拝と遊山が兼ねられるとあって好評だったといわれています。

参道石段も有名です。石段は長く、196段ある。1763年(220年前)大満寺十一世竜鳳方丈の時築造完工しています。その後、明治41年、石工辻本屋七郎右工門並びに仙台市内九ヶ町講中が施主となり修築されています。

石段下、55年に先住三回忌記念事業として新しく出来た山門脇には、鰻の放生の池があり、昔、この池には湧水が出て、うなぎ供養のため、参道入り口で、うなぎ売りから買いもとめて、この池に放しました。また、この池は清水のため、目の悪い人が池の水で目を洗うと良くなるという話を古老から聞いたことがあります。現在は、山の上に住宅が出来て、湧水も枯れ、清水で溢れていた昔日を偲ぶよすがもありません。

明治維新後、護持をいただいた伊達藩が、廃藩置県に会い、大満寺も、ために禄を失い檀家がないため、寺院運営にも支障をきたし、窮乏にあえいでいました。

先代三十世金剛禅貞大和尚の時代(大正12年~昭和53年)、昭和7年、茅葺の小さな寺から、瓦屋根の立派な本堂と庫裡を再建しました。

この本堂、庫裡も昭和20年7月10日の仙台空襲で灰燼に帰しました。戦後間もなく庫裡を再建し、34年に本堂を再々建しました。

昭和53年春、境内地一角に檀信徒会館金剛閣(三十世方丈昭和53年2月12日逝去により先住の法号を取って命名しました。)並びに山門が建立されました。

虚空蔵堂境内には、仙台市民に親しまれている『朝夕5時になる鐘の音』の鐘楼堂があります。

鐘は徳川家息女を奥方に迎えた綱村公(三代)が、享保4年(1719年)6月に卒去した時、八代将軍吉宗の香奠として白金500枚を受け、その金をもとに享保5年に梵鐘を作らせたものです。

鐘楼堂は、昭和9年12月28日松島湾で遭難した旧制二高漕艇(ボート)部選手11名の供養として明善寮に建てられていたものが、戦後間もなく大満寺に寄贈されたものです。

堂建立主は、名物校長阿刀田令造先生でした。その時の明善寮の鐘は、第二次世界大戦の時供出されています。

発願して2年経過の後、開創800年、向山遷座400年、大満寺三十世金剛禅貞大和尚七回忌報恩大事業として昭和58年5月、仙台地名由来の千躰仏奉安殿千躰堂、十二支守本尊奉安殿八角堂の落慶を迎えることとなりました。これも偏に、御信仰厚い人々のたまものと、深い感謝の念で一杯です。

仙台の千躰仏の起源は、いったい何処にあるのだろうかと常々不思議に思っていました。きっと、どこかにあるのであろうと考えていました。あるいは昔の都にその源流があるのではないだろうかとも考えていました。偶然、京都の東山蓮華王院の三十三間堂の千躰仏を拝観する機会を得ました。仙台の千躰仏のルーツは、1164年後白河上皇の創建になる三十三間堂ではないかと思いはじめました。

金箔を張り付けた等身大の絢爛豪華な千個の千手観音です。

昔、人の往来があまりなかった時代、誰かが、あるいは、陸奥人が、都に行った折、そのお姿を拝観して、仙台の地にも、お祀りしたいと願い、せめて小さな木彫りのそれらに似せたお観音様でも・・・。そういった願いが込められて大満寺の千躰仏は創られたのではないだろうかと、そんなことを思いめぐらしているのです。

人間として、この世に生を受けた時、人は四苦八苦の苦しみ、悲しみ、煩悩にさいなまれます。

しかし、一度、虚空蔵尊の山門をくぐり、長い石段を一足一足登って行く時、人は、この世の迷いから解き放たれます。登りきって、仙台が一望出来る美しい境内に入った時、人は、そこで御仏に心身を投げうって、ひたすら祈念すれば、かならず救いと安穏を得るでしょう。まさに境内は、御仏の御悲慈に充ちた悟りの浄域です。深い信仰をもつことは、己の人生に至福をもたらすことです。

一人でも多くの人々に参拝を乞い、虚空蔵大菩薩、十二支守本尊、千躰観音の御光と御加護を受けることを願い上げます。