仏壇・墓について

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墓のおこり

墓のおこり

<はか>という言葉は、葬(ぶ)りの所ということからきたともいわれるが、古代には、現在のような墓地としてまとめられたものでなく、各住家の近くに屍体を埋葬し、それが墓であったわけです。そして<宅>という交字が「すまい」のほか、葬居・葬地と同意で「はか」とよまれているのも、そのためでしょう。しかも、貝塚とともに人骨がみられることから、そういわれていることは先に述べたとおりです。

しかも、曝葬は別にしても、死骸を葬るため地面に穴を掘るにしても、適当な道具がなかった時代には、それほど深いものではなかったでしょう。その葬り方は、伸展葬といい、体の手足を伸ばしたままの姿にしたものもあるが、腕を曲げ、膝を折った屈葬が多いのは、人間の母胎にあるときの姿勢に似せて、大地に帰るさまをしたと見るむきもあるが、死体の上に、平たい石をおいていることから考えても、死者が再びこの世に帰り、たたることがないようにという考え方があっての措置とみるべきでしょう。

時代は進み。
墳墓が仏教寺院の近くに設けられるようになり、ついで墓堂ができるようになります。そのハシリは、八三〇〜八五〇年頃とされるが、それまで庶民は死体をただ遺棄しており、そのあと葬送地を定めるようになったといわれています。こうして、仏教寺院の近くに墓が設けられ、読経供養によって死者が<ほとけになる>という観念に変わってくると、昔から仏への供養の一つとして、造塔をしたということにならい、死者のため角石塔ばかりでなく、層塔・五輪塔・宝塔などがしつらえられ、また出家に対し卵搭が設けられるようになりました。しかも、古くは聖徳太子が、生存中、推古帝二十六年に、自ら募所をきずいたという例もないわけではないが、それは稀にみるところであったものが、漸次、生前に墓所を用意するようにもなりました。